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Web3の片鱗(2)|僕らの退屈な日々を彩るのは「楽しさ」ではなく「興奮」である〜ミームNFTに垣間見る退屈さ〜

2022年06月20日

目次

  • 前提
  • 僕らの退屈な日々を彩るのは「楽しさ」ではなく「興奮」である〜ミームNFTに垣間見る退屈さ〜
  • ミームNFTに垣間見る退屈さ
  • 昨日と今日を区別させ続けることが重要な市場で求められる生産体制とは

前提

※「Web3の片鱗」シリーズはレポートではなく、Web3界隈の断片的な気づき(結論のない、so,what/だから何)を記したエッセイです。
ラッパの音が聞こえたので、どんな意味かと召使いに尋ねてみたが、何も知らないし、何も聞こえなかったという。召使いは門のところで私を引き止め、「だんな様、どこへ行かれるおつもりですか」と尋ねた。「わからん。ただ外に出るだけだ。外へ出ることが、私の目標にたどりつく唯一の道なのだ」と私は答えた。「その目標が何かはご存じなのですね」と彼が尋ねるので、「さっきも言った通り、ここから出ること自体が、私の目標なのだ」と答えた

ジグムント・バウマン著(伊藤茂訳)「退行の時代を生きる―人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか」
フランツ・カフカの短編小説「The departure」を引用した上記のくだりは「新たな挑戦」に向けて旅立とうとするヒトの心境をうまく表しているように思えます。これを不条理と解くか、人類の動力源と解くかは人それぞれでしょう。
さて、挑戦が不条理なのか否かはとりあえず一旦横に置いておいて、なぜヒトは挑戦をするのか、その背景にある切実なペインを説明した文章を以下引用してみます。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセル[18721970]は、一九三〇年に『幸福論』という書物を出版し、そのなかでこんなことを述べた。いまの西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから(1)……。ラッセルが言っているのは簡単なことである。二〇世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていた。これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在しないように思われた。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。

(一部中略)

もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら人は逆に不幸になる。それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。

國分功一郎著「暇と退屈の倫理学」
Web3はカウンターカルチャーである、はその通りであると筆者も同意しますが、あえてこのカウンターを引き起こす動力源にのみ目を向けるのであれば、私たちがカウンターと呼んでいるものはラッセルが指摘するような僕らの退屈な(不幸な)心境がもたらす自由の切望(安全性の放棄)という名の憂さ晴らしに端を発しているように思います。
私が自由を切望するとき、それは往々にして他人の安全を犠牲にすることを意味しており、私が安全を切望するとき、それは他人の自由を犠牲にすることを意味しているという社会のジレンマを前提にすると、私たちが進歩だと主張して推し進めているものは豊さや平和、より良い社会の実現を必ずしも意味するものではなく(主観的事実)、ただ「ラッパの音が聞こえたので、ここを出る」という行為だけが客観的事実として起きていると言えるのではないでしょうか。つまり、それを推進することは間接的に社会の進歩や退化につながるが、カウンター現象が社会全体の豊かさにつながるという因果関係は見出せないということです。
この不条理さ故に悲観主義に陥ってしまう方もいるかもしれませんが、筆者は多少楽観的かもしれませんが、このようにも思っています。
僕らの退屈さから生まれた憂さ晴らしという名の振り子(もちろん安全性の希求も)を人類の動力源と捉えるならば、それ自体が豊かさと直結するわけではないかもしれませんが、失敗を含めて人類の知のアーカイブ、テクノロジーを多少なりとも更新するものにはなり得るのではないだろうか。とも思うわけです。もちろんアーカイブが破壊される可能性はなきにしも在らずですが、少なくともこの動力源が何に利用されているかを多少なりとも理解しようと努めた上で阿波踊り(唄ばやしを参照ください)に参加してみることは、悲観主義に陥るよりかは余程マシな選択肢なのではないかとも思うわけです。
※筆者の指す知のアーカイブについては「Web3の片鱗(0)」をご参考ください。
さて、余談はこれくらいにして、本題に移ります。「僕らの退屈な日々を彩るのは「楽しさ」ではなく「興奮」である」「ミームNFTに垣間見る退屈さと求められる生産体制」という主旨の話、つまりWeb3でいうところのカウンターカルチャーとは何か、その主な動力源とは何か、それはどういう消費傾向を生むか、その結果どのような生産体制が求められるかというWeb3入門となる話を「Web3の片鱗(2)」に記したいと思います。
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