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NFTの普遍性と個別性【後編】|メタ部族社会(またはDAO)とプログラマブルNFT

2021年08月18日

目次

  • 前提
  • 【NFT表現としての普遍性と個別性まとめ】「恣意性を排除した自然の再現と文明」と「複製技術から生じる遊びと文化」
  • 【DAOとNFT/FT】アイデンティティ/コミュニティ管理の役割とNFT/FTによる応用
  • 「開ける/閉じる」力が働く「メタ部族社会」という新たなソーシャルネットワークの形
  • 総論

前提

本シリーズ「NFTの普遍性と個別性」は【前編】【中編】【後編】の3部構成のレポートです。普遍性と個別性という対極的な性質をテーマにNFTプロジェクトを捉え、NFT活用の多様性とその可能性について筆者考察を行います。
今回の【後編】前半では【前編】【中編】で描いた普遍性と個別性を持つNFTの関係性をまとめます。また後半ではそのような性質をもつNFTをDAOに取り込むことの利点について筆者考察を加えます。

※【後編】と称していますが、この【後編】内容を書くために【前編(普遍性)】【中編(個別性)】を先に事例として記したという経緯があるため、【前編】【中編】よりも先に【後編】を読む方が意図が伝わりやすい可能性はあります。

【NFT表現としての普遍性と個別性まとめ】「恣意性を排除した自然の再現と文明」と「複製技術から生じる遊びと文化」

本シリーズ「NFTの普遍性と個別性」【前編】【中編】を通じて、人類の造形様式をたどると「普遍性の志向」と「個別性への固執」があり、そしてNFT表現にもこの2つの意志の揺らぎがある、ということをジェネラティブアートNFT(例:Art Block)とRemix NFT(例:Alchemy NFT)を例に示しました。
この筆者解釈を前提に、「NFT=偽造/複製防止」思考への違和感から生じる問いとして以下の文言を【中編】の後半に加えました。
「NFTに紐づく「見える」デジタルコンテンツがコピーできるかどうかは必ずしも重要ではなく、「見えていない」額縁が識別可能であれば良い場合というのがある」
この文言で意図したことはNFTとはデジタルコンテンツの複製を防止する技術ではなく、
「誰が」「鋳造」しているのか、より意図を明確にして表現すると、「誰が」「複製」しているのか
を識別する技術でもあり、複製する行為そのものを否定するものではありません。
たしかに複製技術が発展普及した結果、偽造品や海賊版が溢れ、その事実を鑑みると、著作権といったものの重要性や優位無二の(ノンファンジブルな)デジタルコンテンツであらんとすることには意義はあります。

~普遍性を追求するNFTについて~

また金融商品としてのアートNFTとは別の見方をすると、例えばそれは本シリーズ【前編】で示したようなジェネラティブアートのように普遍性を追求した結果「人間の恣意性を排除した自然の再現」という抽象化された形で表れ、ある「文明」のようなものを作り出していると筆者は解釈しています。
例えばメタバースを一つの「文明」と捉えるなら、多様な文化表現を超越したユニバーサルデザインであることが求められます。ユニバーサルなデザインとはある法則性を持つものが多く、例えば視覚的には黄金比やフィボナッチ数列などある法則をベースにした表現、例えばル・コルビジェという建築家は普遍的美を求め、身体性と黄金比を構造的ルールに取り込んだ「モジュロール」という基準寸法を発明して自身の建築物に反映させています。これは寸・尺・間のような構造的ルールに黄金比を加えたものであり、つまりは再現可能性と構成可能性を高めるためのモジュールに黄金比という普遍的なルールを加えたということです。
ジェネラティブ・アートは同じようにある法則性を持たせている、という点では同じであり、加えて生成過程を自動化しているため、人間の恣意的な判断はより小さく、故にそのルール如何では普遍的な性質を帯びると言えるかもしれません。
ジェネラティブNFTは数を絞れば希少性をもつコレクティブNFTとなりますが、生成数を制限しない場合は石や植物といった自然物をつくるようのものであり、四葉のクローバーのように特別に物語を付与されるものが稀有な価値をもつとも言えます。
特に後者の自然の再現はクリエイティブ・コモンズのような形で現れるものだと筆者は理解しており、つまり普遍性を追求する表現は文化の下地となる環境やその要素につながっていく可能性はあるのではないかと筆者は捉えています。

~個別性に固執するNFTについて~

「デジタルコンテンツがコピーできるかどうかは必ずしも重要ではない」という筆者の意見は本シリーズ【中編】で示したRemixの概念、つまり「個別性への固執」という言葉で表しました。複製技術は「偽造品の氾濫」というよくない側面も生みましたが、同時にアンディ・ウォーホールによるポップアートや音楽の二次利用、例えばTiktokのようなソーシャルネットワークを通じて「ある種の文化」を醸成しています。
筆者はこの複製技術から生じる「個別性への固執」は「遊戯性」から生まれるのではないかという意見を持っています。
遊びは文化よりも古く、「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にある、とはホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」に詳しく、筆者意見の前提とする考え方です。
ホイジンガはこの著書の中で「遊びはものを結びつけ、また解き放つ」ものだとも述べています。これは遊びを「緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決」に分類した上で語ったものであり、人類がファンジブル、ノンファンジブルの如何を問わず、万物を編集することに遊びを見出していることを表しているとも言えます。
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